ここに集めた小論4篇は、合唱、音楽、芸術についての私の日頃の考えを折にふれて書き散らしてきたものです。私は未だ途上の者ですから将来は考え方も変わるかもしれません。それに私とは異なる意見の方もいらっしゃることでしょう。でも、これから共に合唱の歓びを分かち合って下さる方々に対して、現在の私の考えを明らかにしておくのも無益でないと思うのです。

水野克彦


演奏冥利に尽きるとは

 音楽は解りませんと白じむ人を慰めるために、「音楽」とは「音を楽しむ」と書くのだから先ず楽しむのが一番だよ、といったりしますが、これは明白な間違いだと思います。「音楽」はmusicの訳語ですが、これは元々ギリシャ語のミューズの神々から来た語です。そして、この女神達は音楽ばかりでなく、詩、演劇、舞踏、天文学、幾何学、歴史、といった、人間のありとあらゆる精神活動を司るとされていました。音楽はこれらの中でもとりわけ高度な精神性を有すると認められるからこそ、musicという名を相続したのだと思います。だから低次元な享楽的お付き合いで満足していては到底音楽の本質を掴むことはできないと思います。
 ここで私は「楽しみ」と「喜び」をはっきりと区別したいと思います。単なる楽しみを享受するのは簡単です。然るべきお金を出せば実に様々な気晴らしが手に入ります。しかし、それらは概ね刹那的であって、過ぎ去れば何も残りません。でも、喜びは心を豊かにして生きる糧となり、その力は継続します。喜びこそは人を生かす力です。ではどうしたら喜びを手にすることができるでしょうか。「苦悩を突き抜けて歓喜へ」といったのはベートーヴェンでした。どうやら喜びは棚ぼた式には手に入らないらしい。汗をかかねばならぬらしい。
 そんなことを考えていたら、現代最高のチェリストであるミッシャ・マイスキーの談話が新聞に載っているのが目に留まりました。彼は、音楽芸術の素晴らしさを説き、大作曲家が偉大な作品を残してくれたことに感謝すべきであると論じた上で、自分が、演奏という行為を通して聞き手に芸術作品を提供できる幸福を、喜びを噛みしめつつ語っています。受けるより与える方が幸いであるという聖書の言葉はここでも真実です。しかし、その為には彼は良い演奏ができるように片時も絶えることなく音楽のことを考えているといいます。容易に想像がつくのですが、見えないところで言葉に尽くせない程の努力をしているのでしょう。
 さあ、マイスキーほどの天才でさえこんなに努力が必要ならば凡人たる私達はどうなのでしょうか。広大な音楽の王国で、私達は唯、聴衆として音楽を与えられるだけで満足していなければならないのでしょうか。私達も又、演奏家としての特権を味わうことができないのでしょうか。多分、演奏家になるには恵まれた才能と並外れた努力が要ります。やはり、誰でもが一流のピアニスト、ヴァイオリニスト、声楽家、指揮者・・・、になるわけにはいかない。諦めるしかないか。
 否ちょっと待って下さい、いいことがあります。私達でも一流の演奏家の仲間入りができる音楽があります。合唱です。私はこれを伝えたかったのです。合唱こそは志と熱意があれば誰でも参加でき、アマチュアのままで堂々と公開の場で演奏ができ、しかも合唱でしか演奏できない最高峰の名曲が存在する。そして本番で聴衆共々至福の喜びに浸り、自らも高められる。これが、音楽芸術の神髄を経験するということです。
 皆さん、私は音楽に楽しみや気晴らしがあるのを否定しません。まず歌うのを楽しもう、と言ってスタートしましょう。でも、是非とも更なる高みへと意識が飛躍しますように。私は我々の合唱団が人々に喜びを与えることのできる一流のアマチュア合唱団になることを夢見ています。大いに期待しています。皆さん、喜びへと繋がる楽しい苦労を共にしていきましょう。


2001年6月28日 記


私の合唱についての考え

1. 合わせるということ
 人々が何かを主張したいとき、声を合わせて叫ぶととても大きな訴えになります。声を合わせると気持ちも合うからでしょう。複数の人々が一緒に1つのメロディーをユニゾンで歌うとこれがもっとも単純な合唱です。この時、声と気持ちがよく合うと表現豊かな音楽が生まれ感動が呼び起こされます。これが合唱芸術の本質だと思います。
 合唱は1人ではできません。他方、独唱は1人でないとできません。それぞれの表現方法が異なります。ですから自ずとそれぞれに心がけねばならないことがあるのです。例えばオーケストラのヴァイオリンは大勢で1つのパートを演奏しますが、よいオーケストラ程、まるでパートが1つの楽器になったように揃って聞こえます。音の高さ、音色、リズムとテンポがぴったりと合っているからです。ところがヴァイオリン協奏曲のような場合だとソリストは伴奏オケから浮き出て聞こえたいという欲求から自分の音程をオーケストラよりもほんの少し高めにとってしまうというようなことさえありえます。これが逆だとどうなるでしょう。合奏の中で1人だけ高めに音を外す人がいれば忽ち全体の音が濁ってしまいます。あるいは独奏ヴァイオリンが弱々しい音しか出ないで伴奏オケに覆い隠されてしまっては聴衆はガッカリするでしょう。声楽の場合も全くこれと同じです。合唱と独唱では心がける点が異なるのです。合唱には合唱独自のテクニックというものがあるのです。それは「合わせる」ということです。合唱で一番大切な技術は「合わせる」ことです。

2. アンサンブル
  同時に複数のメロディーを重ねると響きがより素晴らしくなります。和音が生まれるからです。それぞれのメロディーの性格を損なうことなく、なおかつ調和を保ちつつ組み合わされれば立体的で奥の深い音響世界が構築できます。対位法の世界です。私達が楽しんでいる音楽は皆多かれ少なかれこの様な造られ方をしています。
これが例えば弦楽合奏という形を取れば第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バスというパートで構成されますし、合唱という形を取ればソプラノ、アルト、テノール、バスというパートで構成されるわけです。そしてこのようなアンサンブル形態はどのパートが欠けても成り立ちません。あたかも体を構成する部分のどれもが正しく機能してはじめて生きるように、それぞれのパートが正しく機能してはじめて1つの楽曲が生き生きと表現されるのです。全てのパートは等しく重要なのです。
 ここで私は声を大にして言いたいことがあります。それは、合唱をやっている人達の中には、アルトよりソプラノ、バスよりテノールとより高いパートの方が価値が高いし魅力的である、という考えをする人がいるということです。これは全く間違った考えです。その上、合唱団に不和をもたらす実に悪い考えです。このような考えを持つ人は例えばソプラノやテノールからアルトやバスへ変えられるととても不満を抱きます。しかし指揮者は普通、本人以上に客観的にその人の声質を知っていて、合唱団に最も貢献できる一番よいポジションで歌ってもらいたいと思っているのです。私は思わず強い口調で訴えてしまいますが、このような人は合唱団で歌ってはいけないのです。独唱者になればよいのです。合唱はアンサンブルですから1人のために全体の調和が壊れてしまってはいけません。合唱においては声質にあったパートを歌うことが最も重要です。ついでに言うとオペラ歌手などは決して自分の性質に合わない曲は歌いません。その慎重さは想像以上です。先ほど、そういう人は独唱者になればよいと言いましたが、厳しく言えば、自分の声質を省みずに勝手な好みだけで歌いたい人は独唱もできないのです。

3. 合唱団は人の集まり
 当たり前のことですが、合唱団は人が集まって初めて成り立ちます。ところが、この世には誰1人として同じ人はいません。当然、音楽的な能力にも違いがあります。それが普通です。アマチュア合唱団の場合はそういう人達の集まりです。今までの話で私はアンサンブル(合わせる)ということを強調してきました。その観点から考えますと音楽的能力にバラツキがあるのはとても困るわけです。
しかし、ここで私は再び声を大にして言いたい。「合唱団は和が土台だ」と。歌えない人は歌える人に助けられながら一生懸命努力して下さい。それが合唱団に貢献することになるのです。歌える人は歌えない人のために一生懸命参加して下さい。それが合唱団に貢献することになるのです。歌えると思いこんでいる人が歌えない人を裁けば団員がいずれは1人もいなくなることでしょう。歌えないのに歌える人におんぶに抱っこで問題意識もない人はそのうち歌える人を合唱団から去らせてしまう凶元となりましょう。

4. 感動を共有する
 最大の目的は「感動を求める」ということにあります。本番の舞台でようやっと自分のパート譜をなぞっただけでは単に勝手に声を出したという自己満足しか残りません。合唱における真の感動は皆で共に歌い上げたという共有感です。そして感動を聴衆と共にできたという共有感です。将にその至福の時を迎えるために我々は皆で共に練習に励むのです。余裕を持って歌えなければ感動もやってきません。「できる限り練習に参加する」これが鉄則です。


2000年4月6日記


合唱芸術

<芸術>
 音楽を含むおよそ芸術というものの本質は、人間性の発露ということにあると思います。人としてこの世に生を受けて誰もが抱く喜怒哀楽の情、愛と憎しみの複雑な交錯、必ず来る自分と身近な人の死についての想い、などなど人生の荒海を渡るのに誰に変わってもらうこともできない、その人自身の航海をしなければならない中で自らに溜まった感情のエネルギーが外に放出されたものが芸術作品であると思います。だから真の芸術作品は時と場所を超えて普遍性があると思います。日本人の我々が東京でモーツァルトのミサ曲を歌って聴衆と感動を共有できたとすれば、それは同時に二百年前に生きていたモーツァルトとも心の交流ができたといえるのではないでしょうか。


<声>
 人間以外にも発声器官を持つ動物は多くあり、それぞれが特徴ある声を持っています。私にはそれらの鳴き声が皆、魅力的に聞こえます。カラスのガァガァ鳴く声でも見事だなあと感心します。だから人間も一人一人が皆良い声を持っているはずなのですが、年をとるとともに社会生活の様々な局面において働く自意識というものが次第次第に本来の伸び伸びした発声を奪ってゆくように思います。その結果私達は皆自分の声に自身を持てなくなってしまいます。


<歌>
 さて動物たちは大抵は本能の命ずるままに鳴いているのでしょう。それは彼らにとっての感情の発露であると言えなくもないのですが、しかしそれが芸術であるとは決して言えません。なぜなら芸術であるためには知性による組織化という過程を経ることが絶対に必要だからです。そしてそれが歌うという芸術行為なのです。

<合唱>
人が集まって一緒に歌うということは、一つの精神世界を共に組織し共有することであり、これが合唱の歓びです。これは単なる趣味や気晴らし以上のことだと思います。そして歌っているときは恐らく日々の仕事のことや身の回りの心配事を忘れて、本来の純粋な自分本来に少しでも近づいているのではないでしょうか。更に芸術行為は創造行為でもあります。だから練習や準備がきつくてもそれに報いて余りある歓びと充実感があるのではないでしょうか。


1999年7月28日 記


芸術、音楽

 多くの人々がそうであるように私にとってもバッハは特別な作曲家です。人とは何か、生とは、死とは何か、という問題が彼の作品には様々な方法で展開されていると思います。それらを一つ一つ丹念に味わいつつ、やがては彼が残した全作品を追体験するという作業を通して、毎日の雑多な私生活の中に埋まってしまっている自分の真の自己を掘り起こしたいのです。
 そもそも芸術とは何でしょうか。どうも私たちは芸術についての認識が曖昧なような気がします。芸術の本質を過大に或いは過小に価値づけてしまうことなく正確につかみたい。例えば、自分の存在の唯一のより所をそこに置くとする芸術至上信仰や、もっぱらこの世の生に快楽をもたらすための道具としてしかその効用を認めない価値観等はいずれも間違った捉え方だと思います。
 ここで私は芸術について一つの定義を提出したいと思います。「芸術とは、人の生き死にについての個人的心情をあまねく人々と共有できうるまでに一般化すべく、普遍的形式のうちに再構成すること」もちろんこの定義は私的なものですから、これを絶対的に正しいとはしないとお断りした上で、私の定義は次のような問題を示唆すると思います。すなわち、或る芸術の内には個別的個人的形態に留まろうとする感性と、それを普遍的形態にまで変容させようとする共同体的意志が、緊張関係の内に対峙している。それと同等な緊張関係を自らの内に持つことのできる者のみにしか、その芸術は開かれない。
 ここで注意しておきたいことは、芸術の表現形態としては、具象的と抽象的との対称的な二つの傾向があり、これらがそれぞれ、先に述べた個別的個人的感性と普遍的共同体的意志とに比較的良く対応しているということです。すなわち、ある一つの芸術作品の内には常に二つの相反する原理がぶつかりあっているということになります。これは又、人間の精神生活においても、似たような傾向を観ることができるのではないでしょうか。
 そこでもう一度問題を問い直しますと、あまねく人々は芸術の下でお互いの心情を理解することができるか、あるいは芸術にはそのような力があるか、ということになります。このような疑問は私が西洋音楽に取り組む中で常に考えさせられてきたことです。それは日本人たる自分が西洋音楽という芸術形態を通して、自分の住む日本社会といかなる交流ができうるかという、既に少々陳腐になっているであろう疑問が私には未だに湧いてくるということです。
 さて、少し論点を変えて、人がある芸術を受容する上で困難を覚えるのはどのような場合であろうか考えてみますと、恐らく次の三つだと思います。
^その芸術が伝えようとする感性を十分共感できるだけの人間性が未だ深化を遂げてい  
 ない場合。
_その芸術の普遍的表現形式を十分理解できるだけの知性が未だ発達していない場合。
`その芸術が地方性の強い閉鎖的な感性に支えられる場合。

このうち^と_については、自力的努力で解決可能な問題であるからここでは触れず、今特に考えたいのは`についてです。
 そもそも個々人の生物としての生活範囲は時間的にも空間的にも極めて狭いものだと思います。極端なことをいうと、人も野生の動物と同じように一日で歩ける範囲内が日常的生活範囲だといえるかもしれません。そして思考形態や感性もその狭い生活範囲で制限され、それだけ個別性が強く現れる。例えば、世界各地の言語感覚がどれほど多様なことか、且つそれら異なる言語感覚の上に築かれる文学、殊に詩歌などを理解することのいかに困難かを覚えます。一概にはいえませんが、先にちょっと述べました具象と抽象の概念で考えると、具象的要素が強いほど芸術的世界が狭く限定されて閉鎖性が増すように思われます。
 さて、音楽は世界の共通語だとはしばしばよく言われることですが、果たしてそう簡単に言い切れるものでしょうか。ヨーロッパとアジアは全く違う音楽を持ちます。又、空間的座標ばかりでなく時間的座標を採ってみても然り。時代様式の違いは明らかです。このように多様な様相を呈する音楽はむしろ世界中の言語や歴史の数だけ異なる音楽が存在するといって良いのではないでしょうか。その中でも文学的、視覚的表現を伴った音楽は殊に具象的個別的要素が強く、それだけ民族や国家を超えて無条件に誰でも理解できるというわけにはいかないと思います。
 以上のことを踏まえて私達日本人が西洋音楽を理解する場合を考えてみますと、声楽曲より器楽曲の方が、標題音楽より絶対音楽の方が理解しやすいということが生じると思います。田園交響曲でベートーヴェンが表したかった情感は日本の野山に私達が感じるものとは質的に違っていたかもしれないというようなことを考えるわけです。むしろ私達にとってはバッハのフーガが持つ極めて抽象化された表現様式の方が物理的限界を超えてより普遍的であり、より理解しやすいのではないかと思われます。
 ここにおいて私達日本人がバッハの芸術に親しむ意義が生じます。バッハという最もドイツ的、キリスト教的、且つ啓蒙主義的時代に生きたこの人物の、本来優れて限定的なる西洋精神の精華たるべきはずの作品が時間と空間を超えて語りかけてくるのは、愛、憎しみ、喜び、悲しみ、恐れ、希望、絶望、というような人として誰しもが持つ普遍的、且つ素朴な感情です。このような感情を共有できることを可能ならしめるのは、ひとえにバッハの芸術が高度に普遍的変容を遂げているからだといえましょう。
 さて、以上が私の芸術観、音楽観の一端でありますが、ここで最後に少し触れておきたいことは、芸術に於ける美的側面についてです。美は芸術を構成する重要な要素であり、これを否定することは芸術そのものを否定することにつながりかねません。しかし一方で人は美に陶酔し易い存在であり、それ故に芸術を偶像化して信仰的対象にまで祭り上げてしまいやすい。その意味で、美をむさぼることは聖書が述べるところの人の罪の一面だと思います。そして美というものをこのように評価するとすれば、芸術とはすなわち徹底的に人に属するものであって神に属するのではないという命題に至るでしょう。神の被造物の中で知恵の木の実を食べた人間だけが芸術を持ちました。故に人の罪の具現化が芸術であるとさえいえないでしょうか。しかしながら再び聖書に帰れば、そこにはイエスの十字架上の死と復活による贖罪の事実が語られており、それを信じるものにとっては罪に汚れた芸術もまた神の一方的な愛によって清められ、神への感謝を捧げる誠の道具として用いられる、そのような希望に満ちて芸術行為を営むことが赦されると思います。パウロはローマ書で短絡的な誤解を恐れつつも、大胆に述べました。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れた」
 芸術の本質について深い洞察を持っていたルターとカルヴァンがそれぞれに示した、礼拝に於ける音楽の価値付けについての実に対照的な態度を想起しつつ、私達もパウロに倣ってこう言えるのではないでしょうか「芸術が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れた」と。

2001年10月2日 記